野良の覚書

シニアおばちゃんの日常雑記 まだまだ元気

お寺さんについて、つらつら思ったこと。

法要でお寺さんに行ってきました。
以前法要というと、親族が大勢集まりましたが、最近は兄弟やいとこたちは遠方におり、叔父叔母も高齢化し、地元に残っている少人数での法事となりました。
家で法要をすることも少なくなりました。

葬儀とか法事、お墓の在り方などもかわってきています。
子どもが遠方で墓を守るということはできそうもないというので、親戚では墓じまいをする家もでてきました。
一軒がすると、検討し始める家がでてきます。


習俗は時代とともに変化します。
社会環境が変われば当然と言えます。
こうした変化は、私の年になると歓迎する気持ちがあると同時に、受け入れられない気持ちもあります。
私は、単なる形骸化した葬儀や法事などが減っていくことは歓迎です。
でも、人の死を通して自分の生と死を見つめる場としての法事はあってもいいなと思いはするのです。


実家は浄土真宗です。
臨終後は極楽浄土に迎えられますから、故人の冥福を祈るわけではありません。
法要は個人を偲んで仏法に接するために行われます。
私は仏教徒という自覚はないですが、仏教からでも、生きる道しるべを学べるなら学びたいとは思います。
この考え方は、私は好きです。

 

でも、実際はどうなのでしょう。

そもそもお経の意味がわからない。
お経だってわかる言葉だったら考えるヒントになるでしょうに。


今回も暑かったし、私は親戚との義理を果たすためにそこにいるだけです。
単なる形式です。
法要が形骸化しているなら、必要に応じて省いていってもいいと思います。

 

 

現在はお寺さんとの付き合いが、法要と寄付程度になっているなんてことも聞きます。
お寺さんが身近な存在ではないし、心のよりどころでもないのです。

叔父や叔母の代は、お寺さんに思いがあります。
周りからの圧力もあり、お寺さんの存在は自明です。

でも、私の代くらいになると、社会的圧力も弱くなっています。
葬儀だけなら業者に頼んで仏式でも神式でもできます。
今までそうだったからというだけの付き合いなら、やめることもできます。


私は、家族の心のよりどころや地域コミュニティの中心としてのお寺さんがあればいいなと思っています。
そのように機能している所もあるでしょう。
でも、私にはお寺さんはよそよそしい。
多くの人にとってもそうだろうと推察します。


お寺さんは自らの存在意義をどのように考えて、何をしているのでしょう。


お寺離れが深刻みたいです。