昨日は、再話グループの仲間と学習会をしました。
マックス・リュッティの「昔話 その美学と人間像」のビデオ講義を受講しました。
難しすぎて理解できんかったわ( ̄。 ̄;)
日本語か?
日本語だよね。
頭が言葉を受け付けません。
4時間の講義中、先生の言葉を聞きながら、大事な所に線をひいたり、解釈を本の余白に書き込むだけで精一杯です。
理解なんて夢のまた夢。
とりあえず、本の内容を整理してノートを作ってみよう。
わからなくてガックリきます。
でも、不思議とテンションはあがっています。
わからないことをジリジリ攻略していく喜びというか。
隠居に時間はあるのさ。
仕事のためとか資格取得のための学習は結構やってきました。
それとはひとあじ違う学習です。
知識欲。
理解できた時の、「そうだったのか!」という喜び。
でも、困ったことがあります。
昔話の語法研究は、再話のための学習のはずなのです。
理論を活かして、精度の高い再話をしていくための学習・・のはずなのですが。
最近再話に対するモチベーションが下がっているのです。
それより理論の方が面白いのです。
グループで一つの話を、耳で聴いて理解できるように再構成していくよりも、一人で話の構造を確認していく作業の方が楽しいのです。
再話したいと思う話がなかなか見つからないということもあります。
むかし話大学の再話研究会では、すでに相当数の再話がなされていて、かぶらず、信頼できる元話資料の発掘はなかなか大変な事なのです。
むかし話大学も30周年ですからね。
集団で何かするということは、純粋に本体だけをやっていればよいということではありません、集団を維持するためのアレコレもあり、そうしたことが億劫に感じることもあります。
再話という趣味の終了も最近は考えるようになりました。
来年の講座当番で来年の9月までは継続予定ですので、それまでにどうするかきめることになります。
今後モチベーションがどうなるかによります。